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なぜ自分が追いかけられているのか。
なぜ自分が攻撃されているのか。
なぜ自分は逃げているのか。
追いつかない思考の中。少女が辛うじで理解できるのは、この場に居れば自分は殺されてしまうだろうという、絶対的な恐怖だった。
薄暗い施設を駆け抜け、明かりの差し込む扉を拓き、降りしきる雨の中へ。
走る度に地面に溜まった水滴が跳ね上がる。が、それを気にする余裕すらない。

「―――***!!」

遠くで、だれかを呼ぶ叫び声。
同時に放たれる、警笛のような銃声。
銃弾を掠めた肩口から、赤い飛沫が舞い上がった。

それを気にする有余も、振り返る余地も、少女には存在しない。
はやく、はやく。一瞬でも速く、この場を離れたい。
突き動かす感情は血の滲む痛みさえも麻痺させた。

息を切らしながら、雨の落ちる森中を駆け抜ける。
「待て――!!」
背面から声がした。
腕を掴まれる、その前に。少女は踵を返し指を振るう。
それが術式の発動の合図だと気付いたのか、伸ばした指を反射的に退いた男は、二三歩後ろに引き下がった。
雷鳴が光り、生まれた魔術が、少女と男の間を裂く。
正確に発動したかを確認するより前に、少女は再び木々の合間を走り抜けた。
一秒でも、一瞬でも速く、この場を離れたい。
もう二度と追いつかれない場所へ。









やがて疲弊した体が足を止めた頃。追いかける影は消え失せていた。
安堵に胸を撫でおろす。
改めて負った傷を確認すれば、肩口に当たった雨が赤い涙に変わっていた。
傷を見た所為か。安堵感からか。突如痛み出したその痕を、片手で抑えながら、歩く。


わたしは何から逃げていたのだろう。
わたしは何処から逃げてきたのだろう。

わたしは何故追われていたのだろう?



再び走る疑惑。少女はその答えを知らない。
否、それ以前に。
自身が何者なのかさえ、わからなかった。





00-Prologue





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その異変に最も早くに気付いたのは、ふたりの新期生だった。

天に昇る黒煙と、揺らめく緋色の灯り。
任務を終え、本部への帰還途中にそれを発見したふたりは、顔を見合わせ刹那躊躇した。
独断行動など褒められた物ではない。一度本部に帰還して、上司に報告してから、現場に駆け付けた方が良いのでは?
そんな事をふたりで延々と悩み、眉を顰めながらも、結局は火事が起きているであろうその場所に向かい長躯する。

「あたし達、そんな報告受けてないわよね?!」
「受けてねえよ!!」
ざわめく森を駆け抜け、息を切らしながらその場所にたどり着いた男女は、次の瞬間。絶句した。

森林の焦げる不快な臭いと、崩れる瓦礫。
町だった場所が火花を散らし、目前で崩壊していた。


呆然とする彼女の横。倒れる人影を見た男が咄嗟に駆け寄り、身体を揺する。
呼びかけてみても、頬を叩いても、その身体が動くことは無かった。
死んでいる。と、理解した時。恐怖から肢体を投げ飛ばす。地面を転がった骸が、瓦礫に激突した。


「…どうなってるんだ」

混乱するふたりに、唯一理解できた事実。それは町の崩壊という最も単純な真実だった。

駆け寄ってきた彼女が動揺する瞳を揺らしながら男の手を掴み、立ち上がる身体を支援する。
本能からか、恐怖からか。無意識の内に、ふたりは亡んだ町の中で生きた人間を探し放浪した。
――停止しかけた思考では、‘報告’という、余りに簡単で最もしなければ成らない行為さえ思い浮かばなかった。

崩れた家、折れた街灯。湧き上がる炎。
内側から恐怖した時、不意に彼女が視界の端に揺らめく黒い影を捉える。
よそ見をしていた男から離れ、彼女はそれに近付き、身を屈めた。
傍らには無数の死体と、瓦礫の山。
しかし今現在彼女が抱えた細い体だけは、血色も良く致命傷の様な外傷も殆ど見当たらない。
肩を揺すればわずかに呻いた少女からは、か細い呼吸が聞こえた。
脈を測る必要もない。この子は、生きている!

「ロベルト!!」
離れた場所に居る男を呼び、彼女は転がる骸の中からその体だけを引きずり出した。
炎より艶やかな紅い髪を揺らす彼女―ユリア・シェリーの叫喚に、振り返った男、ロベルト・ヴァニエーゼが駆け足で傍に近づく。
「この子、生きてる!」
意識の無い少女の体を抱えたユリアが、背面の男に語りかけた。
歳はユリアと同じか、或いは少し下か。黒いセミロングの髪の少女は、彼女に抱かれ確かに虫の息を続けていた。
身体には肩口に抉られた様な目立った傷は在るが、それ以外に外傷は無い。
同じく身を屈めた男が、肩を揺すり少女の目を覚まさせようと呼びかけた。
しかし少女に目覚める気配は無く、又、この小さな体以外に生きている人間が居るとも思えない。
――そもそもこんな壊滅した町の中で、生きている人間を見つけれた事自体。奇跡に近いのだ。

唯。ひとりでも生きている人間が居るという奇跡はユリアとロベルトの中に確かな安堵感をもたらし、ふたりに冷静な思考を取り戻させる。
我に返ったふたりが最初に気付いたのは、
「…とにかく、本部に、連絡しよう」
報告という簡単な行動を行動に移せていなかったという失態だった。

炎は既に勢いを増し、町の至る所からは、火花が飛び散っている。
これ以上此処に留まる事は危険かもしれない。
次にそれに気付いた男達は、気絶した少女の体を抱え、町の出口に向かい走り出した。



01-崩落の諧謔曲